特別インタビュー①

芸能を未来に繋ぐために―照屋林賢に聞く(前篇)

概要

90年代以降、沖縄の音楽文化・芸能は広く親しまれるようになったが、そのきっかけのひとつとなったのが、りんけんバンドのメジャーデビューとそれ以降のブレイクだった。地域の風習や伝統を織り込みながら、沖縄発のポップサウンドを打ち出した彼らのスタンスは、同時代に世界各国で盛り上がりを見せたワールドミュージックの潮流とも共振するものであった。

中心人物である照屋林賢は、琉球古典音楽家の林山を祖父に、戦後の沖縄芸能の流れを作り出した林助を父に持つという沖縄芸能のサラブレッド。このコロナ禍では自身が経営する北谷のライヴハウス「カラハーイ」からいち早く番組配信を開始し、現在まで毎日のように生配信を続けるなど、沖縄音楽の未来を常に見据えてきた

「伝統」に対するしなやかな思考も持つ照屋林賢は、地域芸能の今後についてどのように考えているのだろうか。「地域芸能と歩む」プロジェクトの2020年度報告書のため、2回に渡って行われたリモート・インタビューのロングヴァージョン(前篇)をお届けしよう。

(インタビュー・文/大石始)

芸能を未来に繋ぐために――照屋林賢に聞く(前篇)

●配信を通して伝えられるものとは

――YouTubeの公式チャンネルで配信を始めたのは2020年4月1日だそうですね。2020年4月7日には東京など7都府県に緊急事態宣言が出され、4月16日に対象が全国に拡大される直前のタイミングでした。

照屋林賢:4月1日からカラハーイを閉めることになったので、その日から配信を始めました。僕らはずいぶん前から配信のことをやっていたんですよ。アップルで音楽配信サーヴィスの立ち上げを任されていたジェームス比嘉と僕は仲が良くて、ジェームスとは(マルチメディア交流のための組織である)「North Valley Okinawa」も立ち上げました。ITの最前線にいる人たちを北谷に呼んで、ITの今後について考える場を作ろうと。それが2000年ぐらいだったと思います。

――当時の林賢さんは音楽配信にどのような可能性を見ていたのでしょうか。

照屋林賢:新しいメディアを通して何かを伝えていく楽しさというのは常にありますよね。それこそ糸電話だっておもしろいじゃないですか(笑)。最初にあったのはそういう素朴な気持ちでした。大掛かりなシステムを組むのではなくて、手作りでおもしろいことができないか。そんなことを考えていました。

――2021年1月9日にはりんけんバンドのオンライン・コンサートも開催されました。沖縄の芸能が凝縮されていて圧倒されたのですが、りんけんバンドが舞台で目指しているものとはどういったものなのでしょうか。

照屋林賢:改めて聞かれると言葉にするのがなかなか難しいんですが……りんけんバンドに関しては「食べるためにやっている」という感覚ともちょっと違うんですよね。むしろお金のことを度外視しているというか。とにかく自分たちが好きなようにやってみよう、と。経済を度外視した舞台を作るべきじゃないかとずっと考えてきたんです。

――ライヴ中、曲の背景について説明する場面もありましたよね。林賢さんが監督を務めた映画『ティンク・ティンク』(1994年)は、りんけんバンドの楽曲がどのようなモチーフのもとで作られているのか、ひとつひとつのシーンを通して紹介されていくような作品でした。林賢さんのなかでは歌の背景にあるものを伝えていきたいという強い思いがあるのでしょうか。

照屋林賢:『ティンク・ティンク』は歌の背景を映画で見せたいという思いから作った作品でした。ただ、歌の背景を説明してから演奏するというのは、芸能としてセンスがないことでもあると思うんですよ。芸能って同じ場所である体験をすることによって、言葉で説明しなくても伝わるものがあるんですね。海外でライヴを続けてきたことで、僕らはそれが身に染みている。民俗芸能であっても、芸能としてのクオリティがないといけないと思うんですね。力のある芸能は、本来説明を必要としないんです。

僕らりんけんバンドも、そこを目指すべきだと考えてきました。最初のころは一切のMCがなくて、ノンストップでひたすら演奏していたんです。でも、ライヴを観た東京のとある音楽評論家から「感動に浸る暇がない」と言われたんです(笑)。それ以降、曲間を少し取るようになりました。

2020年4月1日から開始したYouTubeでのライブ配信(ティンクティンク)2020年4月1日から開始したYouTubeでのライブ配信(ティンクティンク)

●りんけんバンドの土台となった幼少時代の音楽体験

――林賢さんは芸能一家に育ったこともあって、幼少時代から沖縄のありとあらゆる歌や芸能に囲まれていたわけですよね。幼少時代の林賢さんにとって沖縄の歌や芸能はどのような存在だったのでしょうか。愛着のあるものだったのか、特別意識していたわけでもなかったのか。

照屋林賢:あまり意識していなかったですね。高校2年までは(家業である)楽器店と照屋三線店がひとつになった環境で住んでいたので、祖父である林山が弟子に教える古典音楽やビルボードのヒット曲がごちゃまぜに流れる環境で暮らしていたんです。そのこともあって、芸能にせよ西洋のポップスにせよ、あまり意識しないで育ってきたんでしょうね。ビルボードのヒット曲はヒット曲でおもしろいし、古典音楽もやっぱり生で聞くとすごいんですよ。それと比べると、学校で習う音楽にはあまり魅力を感じられなかった。

――いずれ古典音楽の世界に足を踏み入れようと考えていたんですか。

照屋林賢:いや、考えていなかったですね。父親は英才教育をしようと、3歳ごろから三線を教えようとしていたそうなんですが、どうも嫌がったようで。そんなに嫌だったらやめておこうと、それっきりになってしまった。言うことを聞かない子供でしたからね。

ただ、父親も祖父も(芸能を)やっていたので、大人になれば自分もやるようになるのかなとは思っていました。「子供がやるもの」という感覚がなかったんですよ。酒やタバコと同じ感じというか、「避けて通れないんだろうな」とは子供のころから思っていました。

――エイサーはやっていなかったそうですね。

照屋林賢:そうですね。自分ではやっていなかったけれど、夏になればそこいら中でエイサーをやってましたし、僕にとっても待ち遠しいものでした。ワクワクするというかね。太鼓の音が遠くから聞こえてくるわけですけど、おもしろいリズムだなと思っていましたよ。洋楽とは違うリズムだと。エイサーを体験していたからこそ、「沖縄のリズムを作る」というのちの発想が生まれてきたんだと思います。

りんけんバンドではエイサーにも取り組んでいますけど、全部僕の経験が元になっているんです。ただ、心の奥にエイサーが染み込んでいるのは僕だけではなくて、沖縄の中部で育った人であればみんなそうだと思いますね。

――高校を卒業した1967年には、家出同然で沖縄を出て上京されますね。お父様への反発心もあったんでしょうか。

照屋林賢:音楽の勉強をするということに反対されまして、そのことに対する反発心はありました。林助は僕と一緒に仕事がしたくて、高校時代からあちこちに連れ回していたんですよ。そんな時に「東京で音楽の勉強したい」と林助に行ったら、「もう必要ないでしょう」と言われたんです。そこで意見が衝突して、叔母さんから75ドルを借りて家出しました。

――東京で暮らしていた時期、沖縄の歌や芸能に対して心を離れていたということではなかったわけですね。

照屋林賢:そうですね。僕は沖縄の音楽にハーモニーをつけたかったんです。沖縄の音楽を発展させるために必要なものを学ぶため、東京へ行ったんです。沖縄の音楽を捨てたつもりはなかったんですよ。

林賢さんの祖父・照屋林山さん林賢さんの祖父・照屋林山さん

●東京のナイトクラブで繰り返された音楽的実験

――沖縄音楽にハーモニーを持ち込むという発想はどのように生まれたんでしょうか。「沖縄の民謡や芸能は進化をしなくてはいけない」という、ある種の危機感みたいなものがあった?

照屋林賢:いや、危機感はなかったです。当時は嘉手苅林昌さんをはじめとする沖縄民謡の名人がまだまだいましたし。ただ、レコードで聞くとどうもサウンドが薄く感じてしまうんですよ。もっと深い音が作れるんじゃないかと思っていました。

――それはレコーディングの技術的な問題ではなく、アレンジの面で?

照屋林賢:両方ですね。アメリカのポップスなどはやっぱり音が深いんですよ。奥行きがあるというか、もっと厚みがある。聞くものを包み込むような音があって、その中で歌や三線が鳴っている。高校生のころからそういう音楽を想像していたんです。そうした音作りができるようになれば、沖縄の音楽がもっと活きてくるんじゃないかと考えていました。

――アメリカのポップスと沖縄民謡や琉球古典を同時に聞いてきた林賢さんならではのヴィジョンですね。

照屋林賢:そうかもしれないですね。ただ、洋楽を取り入れた沖縄の音楽はそれ以前からたくさんあったんですよ。林助もヴァイオリンと三線を組み合わせたり、そういう試みはいろいろやってましたから。

ですので、新しい沖縄音楽を作るうえでのハーモニーの知識と、ミックスなどレコーディング技術をきちんと学ぶ必要があると考えていました。ビートルズの時代以降レコーディング技術もどんどん進化していましたけど、沖縄にはそれがまったく届いていなかったんですよ。

――7年ほど東京で暮らしたあと、1974年に沖縄へ戻ってきます。その理由とは何だったのでしょうか。

照屋林賢:東京ではクラブやキャバレーで演奏するバンドのバンマスをしていたんですね。当時はメインのバンドとコーラスバンドがあって、僕はコーラスバンドのバンマスをやっていました。メインのバンドは大体管楽器が入った大所帯で、そちらでもベースを弾いていました。コーラスバンドは小編成でできるし、仕事も取りやすかったんですよ。

バンドマスターはバンドのボスですから、自分の好きなようにできる。レパートリーは歌謡曲やビルボードのヒット曲で、僕がアレンジをして楽譜を他のメンバーに配っていました。8ビートの曲に沖縄風の三連を入れたり、沖縄っぽいニュアンスをどんどん入れていってね。最初は受け入れてくれていた他のメンバーも「なんでこんなに沖縄っぽいフレーズが入ってるんだ」と言い出して(笑)。クラブのオーナーからも注文をつけられて、もう東京でやれることはないなと思って沖縄に戻りました。帰るときは決して晴れ晴れとした気持ちではなかったんですよ。挫折感みたいなものもありましたし。

――77年にりんけんバンドを結成されます。最初は知名定男さんのバックバンドとして始まったそうですね。

照屋林賢:そうですね。僕が沖縄に帰ってきて数年したころ、定男さんが『赤花』(78年)というアルバムを出したんです。僕も頼まれて1曲作曲したんですけど、結局ボツにされました。レコーディングには参加しなかったんだけど、ライヴをやるから手伝ってくれと言われて、それがりんけんバンドの原型になりました。僕は高校生のころから定男さんの周りにくっついて仕事をしてましたし、定男さんを師と仰いでいましたから。

――『赤花』はレゲエやロックのエッセンスも入った、当時の沖縄民謡では画期的な作品でした。あのアルバムを聞いてどう思われましたか。

照屋林賢:「先を越されたな」という感じがありました。なかでもレゲエ・リズムの「バイバイ沖縄」。僕もボブ・マーリーを聞いていましたからね。

ただ、僕自身は、レゲエはそう簡単に入ってはいけない領域だとも思っていました。神聖なるリズムだと思っていたし、その感覚は今もあります。(ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズが77年に発表したアルバム)『Exodus』なんかはまさに死に物狂いで作った音楽という感じをしたんですよ。だからこそ、単純にレゲエを真似するわけにはいかなかったし、将来りんけんバンドを本格的に動かすときは、沖縄のリズムを絶対に作ってやろうと決心していました。

後篇へ続く)