開催レポート
南城市のうたの記憶を探す
概要
8月31日(土)、アーティスト・イン・レジデンス・プログラム「南城市のうたの記憶を探す」の公開講座が開催されました。今回は、音楽学者・三島わかなさんからお話を伺いながら、旧玉城村で歌われた《献穀田田植歌》(神田精輝作詞、宮良長包作曲)の背景をひとつひとつ紐解いていきました。編集者でライターの川口美保さんにご執筆いただいた開催レポートを公開いたします。
レポート
文/川口美保
その歌はなぜ歌われなくなったのか。
8月31日(土)、アーティスト・イン・レジデンス・プログラム「南城市のうたの記憶を探す〜《献穀田田植歌》の記憶をめぐって〜」の公開講座が開催された。音楽家・松田美緒さんが読谷村のうたの記憶を探した前回に続き、今回は玉城村(現在の南城市玉城)にまつわる歌「献穀田田植歌」を取り上げながら、音楽学者であり、この歌の研究を続ける三島わかなさん、松田さんとともに、歌を受け継ぐ意味を受講者たちも一緒になって考える2時間となった。
ひとつの歌の中にある物語、歌の背景を知ることから講座はスタート。まず、研究者である三島さんが2007年、この「献穀田田植歌」の楽譜と出会ったことから話ははじまった。楽譜は石垣島の個人の家に残っていた昭和七年の戦前の教育雑誌に掲載されていたそうで、三島さんはそこから「献穀田田植歌」の研究をスタートさせたという。というのも、この歌は、沖縄の人々、特に八重山の人たちにとって「心の歌」とも言える数多くの楽曲を残している宮良長包が作曲したもの。にもかかわらず、この歌は歌い継がれず、途切れてしまった歌だった。
三島さんは言う。
「歌い継がれている歌がある中で、歌い継がれない歌がある。私は、残らないものにも光を充てたいという想い、そして、なぜ歌い継がれなかったのかということを知りたいと思っているんです」
三島さんによるとこの歌は、戦前、新嘗祭に献納する米を育てる田圃に苗を植える「献穀田御田植式」で「早乙女」に選ばれた沖縄各地の女性たち(17〜19歳)によって奉唱されていた歌だったという。当時、早乙女に選ばれるのは光栄なことで、下の世代の女の子たちにとっては憧れでもあったそうだ。早乙女に選ばれた女性たちは「献穀田御田植式」の前に一ヶ月の合宿をし、そこで歌を覚え、所作を学び、行事に臨んだ。しかし、先の沖縄戦によって、「献穀田御田植式」は1944年の玉城村での開催を最後に県内では行われなくなり、その儀式だけでなく、歌も途切れてしまったという。三島さんは元早乙女だった方や「献穀田御田植式」に参加された方を訪ね、その当時のことを詳細に聞き取る調査を行っている。
その中で、なぜこの歌が歌われなくなったのかが語られていった。それは沖縄戦という悲しい歴史と関係していた。というのも、「献穀田御田植式」が、天皇崇拝につながる戦前の行事だったこと、早乙女はその行事の担い手であったこと、それゆえ、戦後長らく、元早乙女だった女性たちはそのことについては口を閉ざし、その時のメンバー同士で会うことすら避けてきたのだという。
そうやって、そんな歌があることすら隠されてきた中で、彼女たちを長年の心の呪縛から開放したいと、当時、玉城中学校の音楽教員だった女性Kさんがこの歌を復活させるために尽力したのだそうだ。
「その先生は、元早乙女をしていた女性たちと何度も会いながら、歌を聴き取り、楽譜を起こしたそうです。その方々は戦後の沖縄の状況にあって、この歌をうたってはいけないと思っていたそうですが、若い時の楽しかった合宿やお互いのつながりさえも失う必要はない。残された自分たちだからこそ、こういうことを踏まえて、平和に生きるシンボルとしてこの歌を歌い継いでいったらいいんじゃないかとKさんは提案そうです」
そうして1990年代から2000年代にかけて「平和と生命の尊さを伝える歌」として、この歌は旧玉城村の行事などでも披露されるまでとなったという。
ひとつの歌から様々な物語が見えてくる。
三島わかなさんから、「献穀田田植歌」にまつわるお話を聞いた後、実際にKさんが歌った貴重な音源を受講者全員で聴かせていただく。元早乙女たちの想い、そしてこの歌をもう一度彼女たちに歌ってもらうことで、平和への願いを託したKさんの想いを、三島さんの話を通して知った後に聴く歌は、とても尊いものとして響いた。
松田美緒さんもその歌について、「純粋にいい歌だなと思いました。宮良長包さん作曲ということもあって、メロディがとても美しいんです。そして、何より先生の歌が本当に素晴らしく、心が溢れていると思いました」と感想を述べる。
この歌には途中「ゆらてぃく ゆらてぃく」という囃子言葉が入るが、この拍子に合わせて田植えをしながら田圃の移動する際についた足跡をならすための所作をしていく様子が伺えるという。それを聞き、松田さんは言う。
「歌の中に動作が入っていることも、三島さんが元早乙女の方々から聞き取りをされていなければ滅びてしまったことだと思います。歌と動作が一緒になっていて、その動作ができる人もここ何年かでもういなくなってしまうでしょう。昔の仕事歌もそうですが、動作と結びついているので、動作が絶えてしまったら歌の本質が伝わらないんですよね。この動作を聞き取りされたのが素晴らしいなと思いました」
三島さんが言うには、聴き取りをする中で、彼女たちは歌の旋律を鮮明に覚えている人もいて、その歌の記憶を思い出している時の元早乙女たちの姿からは「気持ちの瑞々しさが伝わってきた」と言う。
やはり子どもの頃に歌っていた歌というのは一生その人の心に残るものであり、この場合、この歌が彼女たちにとって若い頃の青春の大切な思い出とも重なる時期の大切な歌になっていたことを物語っている。
松田さんは続ける。
「私も地域の中で忘れられてしまった歌に着目して歌の発掘をしているのですが、どうしてこの歌が忘れられたんだろうということを考えたんです。御田植式は、沖縄の伝統的な田植えではなく、早乙女が一ヶ月の合宿によって行う特別な儀式だったので、地域全体で共有していたのではなく、特定の人たちによって歌われたということもあると思います」
松田さんは今回のプロジェクトに関わったことで初めてこの歌のことを知り、事前に三島さんからもお話を聞いた上で、自分なりにこの時代の沖縄の歴史や文化、田植えに関しての文献を調べたそうだ。その中で、当時沖縄でつくれていた米の種類のこと、また、地域の田植えで歌われていた歌があったことなどを知り、その話もしてくれ、ひとつの歌から発展してその当時の沖縄のことを垣間見る時間にもなった。
さらに、これらの話を受けて、受講者たちも交えて「受け継ぐこと」について意見交換も行われた。
その中で、今回のプロジェクトのディレクターである向井大策さんはこう話した。
「元早乙女の方々の人生やその背後の物語を見ていくと、今を生きる私たちにも共感を呼ぶところがあります。歌を単に楽曲として捉えるのではなく、出来事として捉えていくことで、それが人の記憶を紡いで、人の人生の一部となっていることを知ることができるし、その出来事や記憶を分かち合うことができるんですよね。献穀田御田植式という儀式の歌だから素晴らしいということではなく、この歌をずっと覚えていた人がいて、それがその人の思い出と結びついていることや、この歌を復活してあげたいと思ったKさんの想いがあること。だからこの歌は儀式の歌ではあるのだけど、個人という視点からもう一度語り直してみると、この歌の価値が新しく見えてくるのかなというふうに思います」
そして、歌い手である松田さんがこの歌を歌うならどうするか、という問いかけに松田さんは、「やっぱりその時どんな想いでこの歌を歌ったのかを想像するしかないんです。だけど、この歌を聴いて、この話を聞いていると、娘たちの笑顔、楽しい思い出が伝わってくる気がするんです。だからもしこの歌を歌うならそういう気持ちで歌うのがいいかと思いますね」と答え、最後は松田さん、そして受講者の人たちみんなで、Kさんの歌の音源とともにメロディを合わせ、歌詞をみながら歌を歌った。受講者の人たちはこの日初めてこの歌を知ったはずだった。しかし、「ゆらてぃく ゆらてぃく」と歌う時、みな、何か特別な想いをメロディに乗せて歌っていたように思う。
「献穀田田植歌」は、時代に翻弄され、継承が危ぶまれている歌ではあるが、三島さんが楽譜の発見をきっかけに元早乙女の人たちやKさんと出会い、丁寧に聴き取りをし、その記憶をいまに伝えようとする想いと情熱、そしてそれを聞いた上で、歌についてそれぞれが感じ、考え、一緒に歌う時、ひとつの歌を通していろいろな可能性が見えてくるような気がした。
この2時間は、「受け継ぐ」ということへの様々なヒントを受けとった講座だったと思う。ここに参加した人たちは、こんな歌があったということを、きっと身近な誰かに話したくなっただろう。歌は歌だけで存在しない。そこにまつわる出来事、想いを知っていくことで、その物語は次につながっていくと思うのだ。
インフォメーション
アーティスト・イン・レジデンス・プログラム「南城市のうたの記憶を探す」
アーティスト・イン・レジデンス 松田美緒(歌手)
アーティスト滞在期間 2019年8月26日(月)〜8月31日(土)
公開講座「《献穀田田植歌》の記憶をめぐって」
日時 2019年8月31日(土)10:30〜12:30
会場 Lamp cafe+zakka
(沖縄県那覇市松尾2-3-25アーバンヒルズ松尾1F)
講師:三島わかな(沖縄県立芸術大学附属研究所共同研究員)
聞き手:松田美緒(歌手)